2016年は穏やかなリーダーシップを目指していこう。

良寛さんのリーダーシップを考えることがあります。

小淵恵三さんの書生として政治を志してから30と余年がたちました。この月日を通じて私は数々の本から学びを得ました。もちろん本は読むのは好きだったですが、特に政治を担うようになってからは、導かれるように読みました。

とりわけP・ドラッカーの組織論は私に政治家としての行政組織への定義を与えました。S・コービーの「七つの習慣」は私の人生の役割の認識を明確にしました。

このほかにも様々な偉人の伝記は私に力強く、不屈に、圧倒的な正義と使命感をもって生きる事を諭しました。また、研究者が記した経済書は経世済民の経済政策の参考になりました。読んでは、メモを起こし、そのメモを見ては行動を起こしていく。人生は学びという「模倣」の連続です。

それらが今の私を形作っています。私の市長として、父として、夫として、・・・私の人生における多様な役割を果たす道を、先人の書物は灯台のように眩しい輝きで照らしています。

最近、積んでおいた良寛さんの言葉を読み直す機会がありました。改めて今読む良寛の残した言葉は、その「力強いリーダーシップ」とは一線を画するものでした。そこのことが大いに私を悩ませました。

それは今までの読書は何かを成すための学びを得る為でした。現状を是正し社会制度の不備を正すために「行動する学び」です。しかし良寛さんの言葉は何も成さない為の言葉でした。現状を肯定し、受け入れ、社会を疑わず、愛するだけの心です。

吉田松陰さんや田中正造さん、そして大塩平八郎さんの伝記をよみました。そこに書かれた言葉は「知行合一」です。学んだら行動せよ!との教えです。そのことば通り、この3人は社会変革のために行動し、吉田松陰は処刑され、田中は行き倒れ、大塩は自決します。行動し自らの人生を閉じます。

【「花燃ゆ」から感じた松陰さんは私の松陰さんのイメージと重なっています。しかし、違った点がありました。私が破滅への覚悟と思っていたものは、再生への過程としての死だったのですが・・・】

そこに見えるのはリーダーシップのリスクです。危険を顧みず火中の栗を拾い、虎穴に入るリスクです。そこリスクを冒しても必ず手に入れるべき理想があるのです。

いったい、良寛さんは「何を手に入れたかったのでしょう。」

むしろ反対に「捨てる事」しか私には伝わりません。彼から伝わった理想の社会とは「皆がほしがらない社会」です。皆が無欲に暮らす社会を描きだします。無欲社会です。他者を導くでもなく、自らの心を整えるだけに徹し、社会への変革の圧力を与える事もしません。

 「世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞわれは勝れる」

と社会から離れて影響を与えようともしません。今、良寛さんが社会へ与えるものは、他人が勝手に良寛さんから感じているのであって、良寛さんが積極的に発信したのではありません。まさに何も成さない事に徹したと感じています。

「形見とて 何残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉」 

何もいらないよ。何も持っていないよ。でも世界は美しい。無欲に生きれば変革に伴う痛みを受けず自分の心を安寧に出会えるという事です。どの英雄もできなかった無欲の心を成し遂げた良寛さんの凄さです。これは陽明学の「至誠」にも通じるものがあるようです。

論語にある君子は腹が減っても騒ぎません。

「君子固より窮す、小人窮すれば斯こに濫る。」

を実践した良寛さんはやはり君子であったのでしょう。孔子の言葉と良寛さんの言葉はスゴイと思います。「君子も腹を減らして死にそうですね。」との皮肉に対しても冷静に理想を語る。困ったときに徳を忘れるな。と孔子は言います

雪が降れば托鉢にもいかず、腹を空かせても慌てもしない良寛さんは

「飯乞ふと里にも出でずなりにけり昨日も今日も雪の降れれば」

と一切慌ていません。このことと私は大震災の後の日本人の行動規範を結びつけて感じます。

「この里の桃の盛りに来て見れば流れにうつる花のくれなゐ」

この春、東北にも前橋にも、春は巡りくる。それは自然の節理であって誰かの意思で成すものではありません。めぐる季節に感謝して花々を迎えるばかりです。

仙人のような政治活動ができるものでしょうか?憧れながらも、そうは思いません。前橋市にある暮らしを支えるのは明確な志が必要です。新しい年度の予算は数字の行列ではありません。様々な暮らしを支える為に市民からお預かりしたお金の使い道です。どのような志を持ってこの予算を執行するか。私を含めすべての市職員に課せられた責任です。つまり責任を果たしためには力を籠める必要があります。力を籠めなければ、道は開けない。

※ここまで書いて、小林正観さんと富士見の山荘でお話をした際の会話を思い出しています。「気負いを捨てて、政治をしたらどうか?」との示唆だったと思いだす。私は理解できなかった。正観さんの言葉は「こういう事だったのか!」と、おぼろに感じられるようになった。

「凍土に 眠るる種や 春間近 」 りゅう


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