◆ 朝から事務所のデスクに向かって仕事をしています。
1 一般質問の原稿書き
2 自民党県連のウェブページの手直し
3 衆議院候補者の公募 予備選の実施要綱書き
こんな業務に追われて最近日記の書き込みが出来ないことを反省しております。
◆友人から意見のメイルを貰いました。
一般質問のメモ中にある「コアな業務以外は、市町村や民間に任せる。それによって新しい民間の仕事が生まれるはずだ。」「県庁は何をすべきかを明確にせよ。」 との私に主張に対して、早速ご意見を友人から頂きました。日頃から私の政策への客観的なアドバイスを下さる古くからの友人です。
彼は水道事業を公で運営する意味を水という公共財を民間企業の経営の都合で歪められることへの危惧を表明しています。この議論は「全国一律の郵便事業サービス」の観点から郵政事業民営化でも行われた中身です。
この点は同感です。
このように公が担うことでその水準が担保できるもの、逆に言えば 民なら収益の関係から水準を維持できない場合は 無理やり民営化には反対です。
でも浄水場の施設管理など、任せる可能性は探るべきです
私の主張の根底は
全ての公共サービス分野を公務員の専門性を必要とするか?しないか?との議論をしてみよう!との呼びかけなのです。
公務員の定数削減と業務の多様化によって、彼らの多忙感は増しています。
教師が、登下校の監視から不審者対策におわれ 授業の指導シラバスまで手が回らない。この現状を訴えたいのです。
警察官が、書類書きに追われて、犯罪の芽を摘む時間が無いことを恐れます。
私が友人の意見でもっとも共鳴するのは以下の一文です
“ 問題の本質は、「民間に任せられるものが民間に任せられていない」ということではなくて、ある行政サービスを提供しようとしたときに、まず、そうしたサービスが必要か、必要とすればどのような方法でそれを提供することは最も望ましいかを検討するシステムがないということでしょう。そして、この検討には、単に効率性の面からだけでなく、イデオロギーとか歴史的な背景とかという要素も考える必要があると思います。こうした議論があってはじめて、民か官かという、それを担う主体の適正が判断されるべきです。 ”
この議論の欠如こそ、『公の野放図な拡大につながり、その結果が無駄の垂れ流しにつながる。』と考えるのです。
友人より
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現在、小泉改革の影響でしょうか、多くの国民は、公の部分でも民間でできるものは民営化すれば全てうまくいくという考えをもっているように思います。
しかし、例えば、業務の民間委託を単純に理屈として考えてみると、ほとんどが人件費である公務サービスにおいて、業者に委託した場合、委託費のなかには、業者の管理経費や利潤が含まれてくる訳で、介在するものが多くなるほど経費がかさんであたりまえです。これを含めても行政がやるより低い価格であるとすると、そのディスカウント分は労働者が負担しているということになります。
確かに低賃金の労働者ができる労働を、行政では高い賃金労働者が行っているということはありますが、どのような仕事がいくらの賃金で行われるのが妥当であるかということは社会的に非常に難しい問題ですし、自分の経験からいうと、専門性の高い業務の場合、民間委託の見積もりをとっても、それほど差がないように思います。
(話が飛んでしまいますが、例えば、主婦の内職は、考えられないくらい安い賃金で行われていますが、なぜかといえば、その金額でも請け負う労働者がいるからです。こうしたいわば市場原理で形成されている労働市場の中には、夫に十分な収入があって自分は暇つぶしでいくばくかの金をもらえばいいという主婦もいるでしょうし、母子家庭で障害を抱えて自分はそうした仕事しかできないという人もいるかもしれません。思うに母子家庭が経済的に恵まれないことが多いのは、恐らく、この国では女が一人で育児と仕事をしようとすると、つけるのは低賃金で不安定なパート労働市場しかないという社会構造が原因でしょう。ですから、こうした社会構造なり、市場原理をすこしゆがめてあげることも社会福祉の観点から必要です。たとえば、母子家庭の人を行政の正規職員として積極的に登用するということができれば、社会福祉的にはプラスになると思います。)
公でやるべきか、民間でやるべきかは、非常に難しい問題です。簡単に答えが出るものではありません。これに関して、最近、パリの水道事業が、150年ぶりに再公営化されるということで話題になっています。これについて、朝日新聞グローブが取材記事を書いています。それを読むと、再度公営化するに至った背景には、公営化すれば、企業なら利潤として株主などに回る資金を設備投資に使えるという経済的側面と、水は「共有財産である」から短期的利益にとらわれずに長期的な視点で管理すべきである、それには利潤追求をしない公営が望ましいというイデオロギー的な側面があるように思います。
また、同紙は、フランスの次にボリビアの例をあげています。
この例は、民営化したところ、水道料金が引き上げられて住民の蜂起がおこり、再度公営に戻ったという事例です。また、経済原則に則った料金では、貧困層にまで水が行渡らなくなるという福祉的な側面も紹介されています。
さらに、浜銀総合研究所の佐藤裕弥氏は、フランスの水道の例では、公営化した方が経費が低いという研究結果(P.Mann and J.Mikesell)と、民営化の方が経費が低いという研究結果(W.M.Crain and A.Zardkoohi)があると紹介した上で、「わが国の公営企業の経営改革を考える場合には、「公営」か「民営」かといった近視眼的な二元論的発想に囚われることなく、経営効率化・経営合理化を図るための手法の導入の推進といった広い視野で取り組むことが重要である」と結論づけています。(『I Think』浜銀総合研究所 2008年8月号から引用)
こうしたことを踏まえると、問題の本質は、「民間に任せられるものが民間に任せられていない」ということではなくて、ある行政サービスを提供しようとしたときに、まず、そうしたサービスが必要か、必要とすればどのような方法でそれを提供することは最も望ましいかを検討するシステムがないということでしょう。そして、この検討には、単に効率性の面からだけでなく、イデオロギーとか歴史的な背景とかという要素も考える必要があると思います。こうした議論があってはじめて、民か官かという、それを担う主体の適正が判断されるべきです。
にもかかわらず、日本では、「民営化」という言葉が一種の政治的なプロパガンダとして利用されたために、これが金玉のようにもてはやされてしまったという経緯があります。(そもそも郵政民営化賛成か反対かといわれても、郵政民営化の是非だけで、恐らく数百本の学位論文がかけるでしょう。そんなこと素人に聞かれても困るだけです)
実際の事業を担うのが官か民かという議論ではなく、そもそもこの国はどうあるべきか(先の水道の例でいえば、どんな人にも安全な水道水を供給するのか、それとも貧乏人には川の水を汲んで飲ませるのか)ということをきちんと議論し、国のグランドデザインを描くというのが、行政と政治の役割ではないでしょうか。これが決まれば、運営主体は自ずと決まってきますし、結果が同じならどちらが運営しても差し支えないでしょう。
一番大切なのは、国家としての崇高な理念なのです。
先日、テレビで、児童手当の母子加算が12月に復活したことで、母子家庭の暮らし向きが少し良くなった。ある家庭では、それまで毎日、湯豆腐だったが、今日は、安売りの豚肉を買えて、豚肉のしゃぶしゃぶを食べることができた、こどもも久しぶりの肉に喜んでいるという取材を放送していました。さて、この話、どうみればよいでしょうか。国民にどういう水準の生活を保障するかということは、正に世界有数の経済大国である日本のありようが問われることです。それがきちんと決まっていないから、政府の都合で制度を出したり引っ込めたりし、結果として末端の家庭で今日は湯豆腐、明日は豚肉というような悲喜こもごもなことが起きるのです。
そして、国のグランドデザインをきちんと描こうと思ったら、子供手当てを一律に支給してあげようなどという発想は、浮かんでこないはずです。
本文中に出てきた朝日新聞グローブの記事は以下のURLでフルテキスト読めます。http://globe.asahi.com/feature/090525/index.html
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