「政権交代があれば既存の政策すべてが例外なく見直される。」と有権者は覚悟はしていたはずです。私自身もすべての事業を見直すと知事選のマニフェストに示しました。しかし「やんばダム中止をマニフェストに記載する政党が政権をとったが、必要な工事なら継続できるであろう。」と多くの方が考えているように思える。反対に政権奪取した民主党はどんな反対運動が起きようとも建設中止を断行する覚悟があって公約したのでしょう。政権をとってよく調査することから一歩でしょう。
たくさんの人たちが我慢を強制されてきた。家や先祖の墓が水没する人たち。大雨には道路も鉄道も交通止めになってもダムが出来るから改修もできないまま通学や通勤の不便を我慢してきた人もいる。多くの人がそれぞれの疑問を押し殺してダム建設を受け入れてきた。そしてふるさとが良くなるだろうと夢を見てきた。
吾妻線や292号線の行き帰りの車窓から見え剥ぎ取られた茶色の崖に寂しさを感じながらもここから再出発するという希望があったと思います。
「我々が我慢すれば、水を必要としている下流の人々が助かる。国にために役に立つ。」と納得をしてきた。それが政権交代の朝には「無駄な公共事業」と言われ、「水は余っている。治水の役に立たない。」では傷口に塩を塗られることと同じです。
自分たちが負った犠牲が正当なものであるとの納得がなければ彼らの痛みは癒されない。
民主党は個別のやんばダム建設の問題点より、公共事業の廃止というプロパガンダとしてこの「やんばダム」を捉えている。つまり政党の宣伝のために、つまり政策変更の見せしめに吾妻川沿いの谷間に暮らす人々が犠牲になることは許されないことです。不納得は絶望と同じです。
再度、住民の我慢によって、民主党の政策実現への財源を創ることを国民が望んでいるなら、またこれが国が良くなるなら、そして本当に水が余っているなら、少しは痛みも和らぐでしょう。
だから、いま私たちが求めるのは、中止への住民の納得と生活破壊を食い止める政策によって新しい夢がみられる政治の優しさです。
政権にはその責任があります。切り捨てるだけの中止なら許されません。