昨晩、やっと「ニクソン」を見終えた。
「俺は中国との国交を回復した。ソ連とのデタントも成し遂げ、ベトナムの戦争をおわらせた。でも国民は俺を憎む。」
政府予算の違法支出と不正蓄財に明け暮れた彼の政治人生を自省することもなく彼は国民への怒りを抱いてホワイトハウスを去ることになる。
彼の論理にあるのは卑しさだろう。
「ケネディーは親父から全てを貰った。俺は親父から1ドルも貰えなかった。」
辞職願いにサインをした彼は、ケネディーの肖像画のまえで呟く。
人生の一時期、社会へ尽くすという政治家にとって必要な利他の精神を彼は持っていなかった。
権力を自己の為に利用することが彼の政治の全てであったと感じる。
全ての人が求めて止まないもの。それは生きる喜びだ。それを求めて人は人生をさまよう。
金も地位も全て喜びを得るための道具にしかすぎない。
札束を数えること自体が喜びになるのはよき人生ではない。
議員バッジをつける自分を鏡に映すことを喜びにする人生であったはならない。
さてここで感じるのは前橋市政の疑惑が自省なきリーダーに起因するとの感想。
さらには、この一連の疑惑が群馬県政の中核にある権力によって支えられたのではないかとの観想だ。
これらの疑惑に、如何に前知事をとりまく前橋の人脈がかかわっていたかを検証することが重要だろう。そしてそれを可能にしたのが政権交代だったと考える。群馬県知事の重石がなくなったからこそ
検証できるのだ。
そして新しい政権の担い手である大沢知事の行うべきことだ。
(前政権の行ってきた事々を、継続しないことで大きな摩擦を呼んでいるだろう、しかし、継続なら政権交代の意味を失う。前政権が行ってきたことを検証し、見直すことが政権交代の本質なのだから。アマゾンへの学生派遣事業や、県庁前イベントなど見直そうという意気込みにエールを送りたい。まだまだ今回の疑惑のような塩漬けになった土地や不当に高く県有地化した土地、逆に不当に安く売却した土地など前政権のよどみの中の所業を検証することに切り込んでもらいたいと願っている。)
私自身、在野の活動家としての生甲斐を感じている。
その中に喜びを見つけ出している。
しかしこれが現状維持の言い訳になってはいけない。
多くを学び、そしてそれを活かせる機能を有する存在になることを目指すことは当然の使命である。私こそ、利他の精神を政治に発揮できる存在であるとの自負をもってこれからも前進していく。