今回の知事生中継を見ました。政治家が有権者に一方的な見解を伝えるのは当然のことと承知しながらも,その独善的な表現に違和感を感じた。責任ある立場の知事が、自分の後援会員を前になら兎も角、税金を使った報道番組において自分にとって都合のよい解釈で話すなら、それは権力の横暴だ。
公職選挙法にある、資源の平等の原則にも反する。「財力のある者がその資源を使ってビラを配ることを阻止する論理」、我々に反論の機会を与えられない場の一方的な主張は、この原則を犯すのではないか?
知事は、「ならば出席して反論を」と主張するであろう。その言葉に、ある意味で正当性はある。しかし、一方の意見を持っている者が出席をしない以上、他方は自粛するべきである。しかも知事の方がより強い権力をもっているのだから。我々には自前の判断で県民へ意見を広報する資源を有していない。同じ土俵で議論するべきだろう。少なくとも我々議会は、キチンと一般質問でこの問題への知事意見表明の機会は提供したのだから。
さあこの問題への反論をこの私のささやかなHPという資源を使って述べることにしよう。もっとも私にはこの広報手段しかないが。
「定数45人、選挙制度直ちに導入」の知事の主張は誤りではない。何故なら、この主張は自民党内の議員同士の議論でもこの主張を行う方は多かった。つまり我々は、議論の課程なしにいきなり「50人、次回選挙から導入」を議案として決定したのではない。「57人、次次回から導入」から「40人、直ちに導入」まで広範な意見を持つ議員の主張を論理的に議論して、最前の納得である、「50人、次回導入」を決定したのだ。だからこそ、知事の今回の主張も当然のことと思う。
問題は知事の表現だ。「議会が議論なしに自己都合で決定した」なる主張は全くの誤認だ。十分に議論した。議案が決定した後も、納得できない議員もいる。それでも合意に従うのが民主主義である。この合意案に至るまでには党の責任ある方々が相当に汗をかいているのだ。だからこそ「議論もなく。」という知事の言い方は「民主主義課程における苦労を知らない、一人親方の我がまま。」に見えるのだ。相違する意見を論理的に納得を得たのだ。それは南波議員の一般質問で、知事自身が聞いたのではないか?
さらに知事は、「多くの意見が私に寄せられたので知事として行動した。」という。さらには、我々は多くの県民の意見を背負っているからこそ、多用な意見が議会内に存在したのだ。知事だけが県民の声を背負っているのではない。むしろ多くの多用な意見が知事に寄せられた筈だ、その中で「45人、直ちにに導入」論は一部の県民の声ではなかったか?
さらに表現の方法も明らかに、反論する者の不在を良いことに一方的であった。「去年、前橋で市議会は新前橋市全体で選挙、補選は旧前橋市だけ。これでは合併の一体感が醸成されない。」と発言した。トンでもない事実誤認だ。あるいは悪意だ。いや嘘つきだ。去年の前橋の市議会議員選挙は、新前橋市の議員選挙でるが、その選挙区は旧の4市町村毎に選出されたのだ。これほどの見識で発言する主張が、正当性を持っている筈はない。
さらに悪意であろうか?彼は「議会費」と黒板に大書して、こう言った。「議会費は毎年16億円。4年間で74億円。コストは必要だ、しかし何に使われているか・・・。」冗談じゃない。さても莫大な金額を我々が浪費しているような印象を与えている。自分一人で一体いくら使っているのか自問すべきだ。知事退職金一期で5000万円をいかに説明するのか?台湾への旅行代金はいくらかかったのか?
さらに「56人の20%引きで45人」が真面目に政治を行っている人間の言葉とも思えない。自分で編成する予算なら、20%の削減でも結構だ。自分を監視する機関を何ら根拠もなく「私はいろいろ考えて20%減。56×0.2=11で45。」はいくら何でも酷すぎる。話にならない。
それが16億円の議会費の削減が主な論拠なら、自分の昆虫の森の建設費を削減するべきだ。
コメント (2)
自己レスです。
今日はあった人から、過激なかき込みに指摘を受けた。
私はそれらの指摘に対して反応して、権力への批判の矛を収めるつもりはありません。
私に批判されている権力者が、このhpを見ているなら、敬意を表する。良きコンパスにして欲しい。反論があるなら、自分のお金でウェブを開設して反論して欲しい。勿論このコメントにお書き下っても結構です。ただし実名で。
モットもワープロも打てないと、私の質問に答弁していた位ですから
見てねーだロウな。
投稿者: りゅう | 2006年04月05日 10:38
日時: 2006年04月05日 10:38
扠、そうですか。ワープロが打てないから、手書きの発表だったのですね。それで「追求」。小寺さんも、失敗だったな、と悔やんでいるのではないでしょうか。しかし、漢字のよさは、よく言われるように、訓読みして考えれば意味がわかるところです。責任は「追い求める」性質のものではないですから、そういう意味で小寺さんが間違えるのも不思議です。
ところで、このHPはご覧になられているのでは?
というのは、例の地方自治法を公選法に直す作業されてますね。少なくとも印刷したものを見ているのではと思います。「権力への批判」、それは批判のための批判というような旧社共的発想でなければ、民主主義の健全性維持のための必須のことです。ですから行政は、民主的責任行政を確保すべき、さらに進んで「批判にこたえる行政」をめざすわけです。批判から逃げ回るようでは、リスク管理ができていないことを意味し、何よりも人間もそうですが成長しません。そんな県政の元の県民は悲惨です。
昨日、地方制度調査会の答申がでました。3案とも現実性はどうなんでしょうか?道州という屋上屋というか、意味のない中二階を設けるよりも現実は、個々の合併と分割ではないでしょうか。そもそも既存の都府県境を維持する前提から疑問。
投稿者: 内友 | 2006年04月05日 10:39
日時: 2006年04月05日 10:39