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県政運営理念の共有化

2/16コメント10のレスとして書き込みます。勝手なブログ管理ですが、ご協力ください。

知事の理念の共有化は必要です。」と私も感じます。それは執行組織内の共有化です。我々議会は、その知事の理念を基にした政策に実効性があるかどうかの検証機関ですから、少しは離れていたほうがいいのではないでしょうか?

もとより、知事は選挙戦において、議会の会派から推薦を受けました。反対から見れば我々議会の会派政党は小寺候補を適任の候補として推薦をいたしました。つまり小寺県政の方向性を推薦したのです。その意味では、小寺知事の県政運営の方向性である「子供を・・・県。」と言う方向性を認めたのですから、共有化しているとも言えなくはありませんが????

でもその方向性は、子供のいるあらゆる環境に関わることなら何でもありです。「昆虫の森」から「小児医療費の無料化年齢引き上げ」まで。この細目で我々は知事の政策を事前協議して、承認して推薦したのではありません。私の視点では、候補者への推薦決定の方式は誤りだと思います。

知事の側も、「小寺ビジョン」という10年後の群馬の数値目標を掲げました。政策の中身など何も示していないものです。これを基にしては推薦の判断はできないと思います。

話を戻しましょう。「共有化できていれば、もっと議論に深みがあるであろう。」との考えは同感です。

コメント (7)

koro:

2/16コメント10のレス
とのことですので、口火を切る責任があるのかな、と勝手に^^、理解して、返信します。

先に私は「あらゆる現場で理念協働的に徹底的に進めること」と記しました。これは留保なく「あらゆる現場」で「徹底的」ということです。
それは、政策の決定過程であっても、その政策の実現過程でも、実際の運営過程でも、です。

何でもあり、ということはその通りです。それだけ守備範囲が広いということだと私は認識しています。つまりその何でもありを問い直す力が知事の理念である「子供を育てるなら群馬県」には同時にあるのではないでしょうか。

県の予算8000億。すべての施策は、「子供を育てるなら群馬県」の理念に照らして、検証されるべきことのはずです。それを議会の皆さんはあらゆる現場で遅滞無く実行なさっているのでしょうか。あえていいます。たかが議員の海外研修費の予算不計上に反応することでしか、自己存在を主張できないのは(と、しか思えないのです)、情けなさを通り過ぎて悲しみさえ覚えます。

まず、「子供を育てるなら群馬県」とは一体自分にとってどのような意味があり、またどのような可能性(不可能性)があるのか、立脚点を明確にすることではないでしょうか。その立脚点から、例えば、今課題となっている議員定数の話も、その稼動時期についても、あるいは、議会のテレビ放映についても、反対するなら反対するで、論理構成をしないと、議論は始まっていない、と感じます。

*すみません。本日は若干お酒が入っていて、言葉がすべっているようです。ごめんなさい。

koro:

酔っぱのついでに追伸します。

一度、発せられた言葉は間主体的な実存です。「子供を育てるなら群馬県」は、知事の言葉であると同時に、知事の言動をも規制するものとなります。つまり知事のものであって、同時に知事だけのものでもなくなります。

もうひとつ、子供がいる環境だけが、「子供を育てるなら群馬県」の守備範囲だとは私は思っていません。例えば精神障害者が、経済的に自立できないような環境は、「子供を育てるなら群馬県」の理念に照らして正しくない、と感じます。経済から文化まで、その守備範囲は極めて広いと考えています。

koro:

こう思います。

知事が「子供を育てるなら群馬県」と言葉にした県政運営の理念は、選挙という仕組みを通して、県政運営に対して唯一オーソライズされた理念だと思います。

つまり県民が等しく使うことのできる議論の武器、差しさわりがあるなら県民が等しく使用できる作業仮説だと思います。何故、これを十分に議会の皆さんが使わないのか、私には不思議に思えます。

言葉のニュアンスに過ぎないかもしれませんが、理念の共有というようなスタティックなものであってはいけないと思っています。私は理念協働的、つまり、その理念に従ってダイナミックに群馬県を構築していくということこそが必要なのだと思います。当然、その理念の実現を付託された知事も、知事がその理念を確かに実現しているか検証する議会も責任が発生します。

予定調和の対立はすでに終わっている、ということを深く認識していただければと衷心から思います。

ryu:

『知事が「子供を育てるなら群馬県」と言葉にした県政運営の理念は、選挙という仕組みを通して、県政運営に対して唯一オーソライズされた理念だと思います。』との趣旨は理解します。

でもkoroさんが、はじめに言われたように、
「住みやすいふる里・・・」との意味のない言葉と同じように聞こえませんか。そこには一体その為に何をするのかを県民の説明しようという
権力の意志を感じません。

限られた財源の中で、事業の優先順位を自ら説明するべきです。
その説明に対して、議会は判断するのが順当な政治ではないでしょうか?

koro:

お返事ありがとうございます。

山本議員の率直さ、また多くの議員がHPを立ち上げながらも、その実態は多く公開のポーズに過ぎない中で、ブログを立ち上げ、それに耐えている姿勢(それは、そんなに容易なことではないと思っています)は、本当に好感します。

ですが、いえ、だからこそ申しあげます。

■『知事が「子供を育てるなら群馬県」と言葉にした県政運営の理念は、選挙という仕組みを通して、県政運営に対して唯一オーソライズされた理念だと思います。』との趣旨は理解します。

ならば、

■説明に対して、議会は判断するのが順当な政治

の判断基準もまた、オーソライズされた理念でなければなりません。

先に私は、知事の理念は、「県民が等しく使うことのできる議論の武器、差しさわりがあるなら県民が等しく使用できる作業仮説だと思います。」と書きました。

一般県民は、使用「できる」ものですが、地域の将来を付託された議員は、使用「しなければならない」ものと考えます。何故なら、県政運営の方向はオーソライズされているのですから、その方向の実現は、議員の責務だと考えるからです。もっと積極的に言えば、実現へ加担を要請されていると考えるべきだと思います。
山本議員がどんな優れた理念や判断基準を持っていたにせよ、県全域でオーソライズされたものではありません。ならば、その判断は、地域的な、あるいは恣意的なものと見なされても仕方のないことです。

先に知事の理念に対して、私は二つの面で優れていると記しました。もっと説明をせよということであれば説明もいたします。

しかし県政運営のためにオーソライズされた知事の理念を無意味と言った時点で、協働的に群馬県を構築していく前線から離れ、単なる評論家に成り下がってしまうことを深くご認識いただければと思います。

「子供を育てるなら群馬県」という理念を、ぜがひでも自らの議論の武器として磨き、行ける最も遠くまで行って欲しいと思います。そこで論理を構築し、大いに議論をして、豊な県土をつくりあげていって欲しいと願います。(山本議員、実は知事の理念の守備範囲の広さ、射程距離の遠さは、内心理解しているのではないですか? そんな風に疑っています。その広さ、遠さを、政治的なゴシップや県政治風土の不潔さに惑わされることなく、素直にお認めになれば、と、希望的には思っています。)。

おそらく、多くの県議会議員は、そこに辿りつくことはできないと私はあらかじめ推測しています。このブログに耐えている山本議員に期待します。

そして今、ここで交わされている議論は、他のどんな議論よりも、最前線だと私は思っています。

そういえば、このブログのどこかでマルクスを引用していましたね。良く知られたことかもしれませんが、「私はマルクス主義者ではない」とマルクス自身がいったそうです。言葉の持つ間主体的実存性とはそういうことだと思います。


*名無しは名無しを呼びます。2チャンネルなどのサイトの可能性は認めるにせよ、危険もあります。全くの匿名性の罠に落ちないことを老婆心から心配いたします。

ryu:

『しかし県政運営のためにオーソライズされた知事の理念を無意味と言った時点で、協働的に群馬県を構築していく前線から離れ、単なる評論家に成り下がってしまうことを深くご認識いただければと思います。』
そのようですね。よくわかります。私は知事の持っている尺度で語られた政治理念である「こどもを・・・」を基本的には受け入れていると思います。

でも何かが違うのです。
賢さとは、愚かな人間がることを理解する能力でもある。

koro:

その違う何かは、積極的な理念協働(論理であれ、実践であれ)の過程で、必ずや見えてくるかと思います。いつの日か、その輪郭線が結ばれ、言葉に結晶する日が来たらんことを祈ります。

これにて、今回の発信は終えます。

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2006年02月20日 23:01に投稿されたエントリーのページです。

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