父 山本雅雄(元草津町議長・株式会社三津本代表)十二月十九日逝去いたしました。
生前中故人に賜りましたご厚誼に心より感謝申し上げます。
葬儀は密葬にてささやかに執り行いました。
尚、告別式は下記のとおり草津町・株式会社三津本・山本家の合同にて執り行います。

山 本 雅 雄 合 同 葬 の ご 案 内

1.日時 2月7日(日)午後1時より

1.場所 草津音楽の森国際コンサートホール(天狗山スキー場奥)


バスのご用意がございます。
◆県庁前         午前10時発
◆草津バスターミナル 午後12時発

ご利用の方は事務局までご連絡お願い致します
027-219-1005 山本まで

葬儀委員長 草津町長 黒岩信忠

草津町 株式会社三津本 山本家


より大きな地図で 草津音楽の森国際コンサートホール を表示

草津町内からお見えになるみなさま
「湯の香返し」なる「香典返し引き換え券」をお返しいたします。 ( 引き物引き換えを町のお店に依頼しています)
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草津温泉によって活かされてきました故人の思いをお汲みいただき、 最後まで、お手数をお掛けいたしますが、「湯の香返し」にてのご利用をご承諾くださいませ。 株式会社三津本   0279-88-4848  山本 龍 

発   券 : 草津町内からの会葬者みなさまへの返礼に告別式において発券いたします。
利用期限 : 券の利用は平成22年8月31日までとなります。
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会葬に見えられた方が、それぞれ草津町内でお好きな引き物をお引き換えください。


故山本雅雄 告別式次第

栄誉礼
草津町消防団
読経 光泉寺 御住職
開式 葬儀副委員長 市川捷次 様
草津温泉旅館協同組合理事長
式辞 葬儀委員長 黒岩信忠 様
草津町町長
弔辞 葬儀副委員長 関 憲文 様
草津町議長
弔辞 葬儀副委員長 山田寅幸 様
草津町観光協会会長
弔辞 葬儀副委員長 宮ア謹一 様
友人代表
弔辞 自民党群馬県連会長 中曽根弘文 様
弔辞 参議院議員 山本一太 様
献花 親族・葬儀委員
御礼 遺族代表
献花
閉式 草津町商工会長 武藤義徳 様
株式会社 三津本
0279-88-4848(本社)
0279-88-3385(工場)
草津町草津275-7

 


思い出

前草津町長 中澤  敬

 先駆者として草津町の礎を築かれました数々のご功績に対しまして、心より敬意と御礼を申し上げます。
  あなたは父中澤清が町長の時代には、30代、40代の最も充実した議会活動をし、草津町の発展のために納得の行くまで議論をし、万代鉱温泉給湯開始、公共下水道一部供用開始、小学校統合校舎完成等を成し遂げ、「剛直にして情熱をもつお人柄」と父より聞いておりましたが、私の就任時には草津町町政参与として、「温厚にして温情あふれるお人柄」で町政の推進に陰よりご尽力を戴きました。
  あなたの長年にわたり草津町の振興のために尽くされた志は、今、ご活躍されているご子息、そして、多くの若者に受け継がれておりますことは、我々にとっては大変心強い限りであります。
  親子2代にわたりましてご指導、ご鞭撻を賜り厚く御礼申し上げますと共に、謹んで安らかに眠られんことお祈り申し上げます。
 

草津町議会議長 関 憲文

 議会人としての大先輩であるあなたが、草津町の発展のために長年にわたりご尽力いただきましたことに、敬意と感謝を申し上げる次第であります。
  あなたは議会在職中、特に、スポーツを通して議員の団結力に力を注いでくれました。
県町村議会議長会主催のソフトボール大会やゴルフ大会などで、監督として草津町議会を優勝に導いてくれました、そんな数々の功績の証であるトロフィーが、今でも議長室を飾ってくれています。
  あなたのご遺業は、これからも脈々と伝えられることを信じ、心からご冥福と安らかなお眠りをお祈り申し上げます。
 

友人代表 宮ア 謹一

 山本雅雄さんは私のゴルフの師でもあり、追想もゴルフに関連してしまう。
房総勝浦でプレーの時、前のプレーヤーが遅く雅雄さんは例のごとく大声で「早くしろーゴルフは紳士ばかりやっているとはかぎらねーぞ」と・・食事の時支配人が「誠にプレーが遅くて済みません時間をとってゆっくりスタートしてください」。終わって会計を見るとグリーンフィーが割り引いてあった。
数年後福岡空港近くのゴルフ場のレストランで、前の組の一見職人風のプレーヤーから「あんた達どこから来たの」「俺たちかい、上州は国定忠治だい」と雅雄さん、すると坊主頭の男が職人風の男に靴を履かせにやってきた。
キャディーが雅雄さんに何やら耳打ち、食事もそこそこにいなくなった、萩原 亮(故人)さんが「三津本はどこへいったのかな」? キャディーの耳打ちは前の人はこの辺の組長だから気をつけて下さいだった、上州の忠治も参った。
 

草津町商工会々長 武藤 義徳

 平成元年三月、小学校六年生の娘が卒業式から帰宅し、開口一番「町の議長さんが面白いことをいろいろ話してくれて本当に楽しかった。
私、あのおじさん大好き」と云った言葉を今も鮮明に覚えています。
  そのおじさんこそ山本雅雄さんだったのです。
当時四十歳の私にとって、町の重鎮であり強面の“ まっさん”は、ろくに話の出来る人ではありませんでした。
  その“ まっさん”の子供をも虜にするような人柄、人間性が解りかけてきたこの頃でした。
  これから“ まっさん”に少しでも近づけるように生きてまいります。
  またあえる日まで、、、。
 

「二・五マッハ」をめざす雅雄さんを偲ぶ   山口 鶴男

 折を受けました。
昭和三〇年の群馬県議会選挙以来、昭和三五年の総選挙で幸運な初当選まで、順調な政治活動を続けてきた私にとって思いもよらぬ大きなショックでした。
 傷心をかかえたまま「不徳の致すところ申訳ありません」とお詫びの行脚をつづけ、草津で先ず山本雅雄さんのお宅を訪ねると「鶴男さんか先ず上れ」と暖かく迎えていただき、客間に通されました。
「この度は不徳の致すところ申訳ありません」というと「それだけかね」ととわれ「考えてみれば私自身真剣味が足りませんでした。
 次の選挙は私の政治生命をかけ真剣に戦う決意です」と答えました。
雅雄さんは「判った。全力で応援する。」「草津ではマッハ二以上マッハ二・五を獲得する」といわれ、固く手を握られました。
その時の大きな掌の暖かさは終生忘れることはありません。
二マッハ、二・五マッハとは、雅雄さん独特の表現で、超音速時速二千キロ・時速二千五百キロ、草津で二千票以上二千五百票を確保するとの決意の表明でした。
開票の結果、二度目の当選を勝ちとり、議席を獲得することができました。
  いらい当選十一回を重ね、党、国会、政府の要職で働くことができました。
  一方、雅雄さんは、町議会の各委員長、副議長、議長として町政の重職を続けられました。
この間町民の期待をうけて町長と町議会の皆さんと一緒に町の要望事項を携えて、衆議院議員会館の私の部屋を度々訪れられました。
特別交付税交付金の増額、小中学校の温水暖房の実現、上下水道の整備、社会体育館の建設、ロープウェイ建設のための起債の確保、営林署、群大病院分院の存続などでありました。
私が、雅雄さんはじめ地元の皆様のご恩に報いるべくその実現に全力を尽したのは当然であります。
  昨年師走の中頃、突然の電話を頂きました。
  その数日後、悲しい訃報に接しました。取るも取りあえず、お宅に伺いました。
二階に通されますと、奥様はじめご子息ご夫妻にかこまれ白い布団の上に雅雄さんは静かに横たわっておられました。
「雅雄さんお蔭で政界で働くことができた鶴男です。有難うございました。有難うございました。」と呼ぶと思わず涙がこぼれました。
  奥様はじめご遺族の皆様のご心痛、ご悲嘆、お慰めする言葉もありません。
最後に、心から感謝の誠を捧げ、ご冥福を祈ってやみません                           合掌
 

「殺生ヒュッテの想い出」          山口 雄治

 雅オジ夫婦は昭和三十五年頃から殺生にヒュッテを営業し始めた。
一族を巻き込んでのヒュッテは、二階にバルコニーを備えたシャレー風の山小舎であった。
  通いの従業員は、朝一番のリフトで食材を担いで上がって来る。
卵を担いだシノブさんは強風にあおられてリフトから転落してしまい、 やっとの思いで上がって来ると昼食の時間になってしまったのである。
また、住み込みの若い人は仕事が終わってから町まで降りて行き、温泉に入って一杯飲んでから帰って来る強者もいた。
  通常はラーメンやカツ丼等も作っていたが、忙しくなると雅オジの指示でカレーのみを販売した。
カレーは早く出せる上に単価も良かったのであろう。
当時のカレーは市販のルーがなかった為、ラードと小麦粉とカレー粉で作った本格的な物であったと記憶している。
  日本発の女流登山家「黒田初子」さんが、ヒュッテで飲んだ「ぶどう液」の想い出を専門誌に書いてくれた。 
また「向田邦子」さんもエッセーの中でヒュッテで飼っていた犬のシロとスキー汁(豚汁)のエピソードを綴ってくれた。
  私を含め子供達はここからスキーで学校に通っていた。
五分もすれば天狗山まで一直線であった。
有名なヒンターゼアが天狗山を滑っているのを見た時には、その上手さに唖然とし、父・正一がスキー学校の校長をしていたので、特別にヒンターゼアとゴンちゃんと私の三人で写真を撮って貰ったものが今も三津本に飾ってある。
雅オジは長男の郁夫(ゴンちゃん)にはスキーの英才教育をした。
月明かりの中で繰り返し練習させられ、私も一緒に付き合わされたものである。
  また、ある時には学校の帰りに建材店で空気銃の玉を買って来るように言われ、ヒュッテに戻るとマッチ箱を狙って射撃大会をしてくれた。
  今思えば、まるで漫画の世界であった。
その時代に自由奔放に生きていた男が雅オジであり、一族を束ねていた大きな柱がなくなってしまったような気がする。
  私の中では、もう一人の父親でもあった。 これからはきっと寂しくなるであろう。
  私達親戚一同は、雅オジを陰で支え続けた芳枝おばさんに改めて感謝し、尊敬の念を表したい思いで一杯です。
 

草津新聞 S43.5.1 コラム抜粋

山本氏は、云うなれば草津町の中でも勇気ある自由人と云うことができるのではなかろうか、そして氏の行動は、その都度草津町の風雲を呼んできたと云える。
  一徹な信念と誠意は氏の少年時代から形成されて来たもののようだが、然しときによって直情的な形をその資質はとるときがあり、たまたま誤解を招くこともあったようだが、何れにしても氏の竹を割った様な明るさは、それらを氷解さすに日時を要せず、青年政治家は全く建在云うなれば順調なる道を歩いてきたのである。
 

妹 河野 唯代

 

柴又帝釈天で、二年ぶりに兄と会いました。
  互いに体調が優れず、群馬と千葉に離れて会うことさえ難しくなっていました。
  やっと念願かなったのが昨年十二月十五日。
  別れる時に「来年も又ここで会おうや」と兄は言い、握手をしました。
  最初で最後の握手となりました。
  無愛想でしたが、芯は優しく温かい人でした。
  具合の悪い私に草津から三日と空けず電話をくれました。
  もう、まっちゃんからの電話のベルが鳴ることはありません。
  私にはかけがえのないたった一人の兄でした。
  まっちゃん今までどうもありがとう。

 

「千の風になって」天国で         妻 山本芳枝

 本日は皆様のご臨席をいたゞき、深く感謝申し上げます。
  皆様にご迷惑をおかけしたことが多かったことと思いますが、夫は町を思う志に生きた人生ではありました。
  子供たちを育てるためとはいえ、標高一、六〇〇メートルの殺生でのスキー小屋経営は、厳冬のきびしい自然との闘いでもありました。
  夜は、ストーブを囲んで集い、父親は「努力、努力」の信条を子供たちに語っていました。
  夫は晩年体調を崩し、入退院をくり返し、闘病の苦難もあって、ときには治療の拒否や、看護師への挑発的な態度などを見せることもありました。
  病院を追い出されるのではとヒヤヒヤしました。
  しかし、看護に付き添ってくれた龍の嫁三枝さんには「ありがとう」の感謝の心をもっていました。

   新しき治療受くべきとの
   子のねがひに
   幼子の如くうなづく夫は   芳枝

  孫たちが遊びに来ると、やがて歌がはじまり、その歌声を笑顔で聞いていました。
  火葬場では、棺の入った扉の前で、孫たちが「翼をください」を合唱して天国へ送ってくれました。
天国まで聴こえたでしょうか。
  皆様ありがとうございました。
 

長男 郁夫(ゴン)

 重たいくらいの愛情を貰いました。
 私は父と草津の皆さんに育てていただきスキー競技を通じて青春を過ごしました。
このとき鍛えてくださった精神が今日まで私を支えてくれます。
心からの感謝を申し上げます。
客観的な視点で父と私との関係を見ればそれは「巨人の星」の親子のようだったでしょう。
『ゴンをオリンピック選手にする。』との父の思いに応えることは残念ながら出来ませんでしたが、日の丸のついた全日本のユニフォームが飾られた父の部屋にいると父の気持ちへの親孝行が少しはできたと思っております。
 父と私に費やした人生の忙しさから解放された母が残されます。
どうか多くのご友人の皆様にお出かけ頂き、母との楽しみの時間を共有いただければと願っております。
 

次男 龍

「親父みたいな男にだけはならない。」といつも父を反面教師に頑張ってきました。
私も父に似てきたと言われると少しショックです。
たくさんの方々の友情と忍耐に支えられて山本雅雄の人生が終わりました。
妹父は感謝も言わず逝きました。残された私たちが、少しずつではありますが皆様のご恩にお返しをしてまいります。
父のジェトコースターのような父との人生が終わり母は気が抜けてしまうことが心配です。
どうかお力添えをお願い申し上げます。
 

長女 容子

 「勝負の神様」とは父の言葉です。
突然 上野駅に迎えに来いとの電話で父と母、そして父の妹である叔母と帝釈天近くの馴染みの川魚屋さんで鰻を頂いた翌朝、父の心臓が停止したとの連絡
「お前は運転が下手だ。」が最後の言葉です。
父らしい最期であったと思います。たくさんの方々にご迷惑を掛けたでしょう。
最後まで父とのお付き合いを下さった皆様に心から感謝を申し上げます。
 

二女 馨子

 お父さんはいつも「末っ子のお前は、親と一緒にいられる時間が一番短いから可哀想だ。」と可愛いがってくれましたね。
それなのに、いつも心配ばかりかけて、ごめんなさい。
  「女の子は素直で優しく育てれば、幸せになれるから。」と言って育ててもらったのに、父に似て短気で気が強くて、今では私は、「チビ雅雄」と家族に呼ばれています。
でも、お父さんが、いつも願ってくれていたように、いっぱいいっぱい幸せですから安心してください。
  雪がとけたらお父さんの大好きな桜が咲きます。
その桜の下をニコニコしながら嬉しそうに歩くお父さんの後ろ姿を見るのが好きでした。
もう会えないとしても、目をつぶればいつも、その姿が浮んできます。
これからもその後ろ姿を追いながら、生きて行きます。